荘川の里
今日の散歩写真は、岐阜県高山市荘川町の「荘川の里」
江戸時代くらいに建てられた住宅が展示されています。
主な展示は
旧三島家住宅
旧山下家住宅
旧木下家住宅
宝蔵寺庫裡
メインは岐阜県重要文化財(他は高山市文化財)に指定されている旧三島家住宅かな
私的には、旧三島家住宅にまつわる
上木甚兵衛と三島勘左衛門、お二人の生き様に心動きました。
上木甚兵衛と三島勘左衛門
簡単に説明しますが
この旧三島家住宅が建てられたのは宝歴13年(1763)
当時の家長は「三島勘左衛門」さん
その時、「三島勘左衛門」は13歳で
実際に指揮したのは「上木甚兵衛」さんです。
ちょっと話が遡りますが、三島家はこの地方の豪族の末裔で
代々名主を務めるこの地方の豪農でした。
「上木甚兵衛」さんは三島家で生まれましたが、才を買われ30歳の時に高山市の造酒屋に養子に出て上木家の家督を継ぐことになりました。
三島家では、家督継いだ甚兵衛さんのお兄さんが若くして他界してしまい、養子を迎えたのですがこの方も病弱で子ができず、上木家に養子に行った「上木甚兵衛」の子供「三島勘左衛門」が赤子の時に三島家に養子に入る事になったという事です。
養子に出した子供でしたが
後に「三島勘左衛門」が
『つらかりし教えの今しあらばひま行く駒を返すよしがな』と歌に詠むとおり
「上木甚兵衛」さんは「三島勘左衛門」を厳しく育てました。
安永2年(1773)再検地をめぐってこの地方に長年に及ぶ一揆が起こりました。
結果として、農民が磔4人、獄門17人
総勢1万人もの処罰者が出て収束したのですが
「上木甚兵衛」という人は現場から離れた高山という地にありながら
役人との交渉をするなどしたことから
町人としてはただ一人、『島流』の刑を受けました。
流されたのは現在の東京都「新島」です。
「上木甚兵衛」さんは、島でも島の子供達に読み書きを教えたり
島の教養人と交流を深めたりして「飛騨ン爺」と呼ばれ慕われましたが
寛政2年(1790)中風で倒れ
不自由な体になりました。
「三島勘左衛門」さんは、一族を代表して
「上木甚兵衛」の看病をするために島に渡り
8年間看病して
死後、墓石を建てて飛騨に帰ったということですが
その期間、なんと10年でした。
当時の暮らしを再現しているという事でした。
【撮影データ】
カメラ : Nikon D810
レンズ : Zeiss Distagon T* f/2 28mm
コメント